フィラース・ハティーブのサッカー人生

シリア代表
ハティーブのウェアにサインするアサド大統領(enab baladiホームページより)

今回紹介するのは1年ちょっと前の記事です。2018年12月24日にネットメディア「イナブ・バラディ」に掲載されたフィラース・ハティーブに関する記事「رجل في الأخبار.. فراس الخطيب الذي تقلب على ضفتين وخسرهما – عنب بلدي」です。

ハティーブはシリアでは絶大な人気を誇る選手でしたが、2019年9月に現役引退しました。この記事はその際、検索したとき見つけたものですが、記事自体が書かれたのは引退表明の10カ月ほど前の2018年12月。翌年(2019年)1月からUAEで始まるアジアカップに参加するシリア代表メンバーからハティーブが落選したことを受けて掲載された記事です。

「イナブ・バラディ」は反政府系なので、記事ではハティーブに対して辛辣です。政府軍の自国民への空爆に抗議して、いったんは代表チームと決別したにもかかわらず、のちにその立場を翻したことで人々の批判にさらされ信頼を失った。そして、今回はそれに加えて、最後の国際的な活躍の場となるはずだったアジアカップ出場の道も絶たれてしまった、と述べられています。

この記事でどうしても意味がわからなかった単語があります。التحدي です。辞書的には「挑戦、挑発、刺激」といった意味になるのですが、それでは意味が通じません。わからないので、「サッカー選手としての目標」といった意味に置き換えています。文脈としては大きく外していないと思っているのですが、どうかな。


両極に揺れ、いずれも失ったハティーブ

掲載紙:イナブ・バラディ
掲載日:2018年12月24日
URLhttps://www.enabbaladi.net/archives/272165

(小見出しは訳者によるもの)

ドイツ人監督との対立

スポーツ解説者で代表チームのリーダー、祖国への帰還者であるフィラース・ハティーブの名前は、アジアカップに向かう選手リストにはなかった。シリア代表のベルント・シュタンゲ監督が今日(*2018年12月24日)発表した最終登録メンバーからハティーブを除外したためだ。

招集されなかった理由は「ケガのため」とされている。しかし、ケガの治療期間はわずか1週間ほどだと見られている。ハティーブが代表メンバー落ちするのは今回が初めてのことではない。シュタンゲ監督は、今年(2018年)11月初旬のバーレーン、中国とのテストマッチでも、彼を招集しなかった。

アジアカップの最終メンバー発表を行った際の記者会見でシュタンゲによると、メンバー選考は、国内組、国外組とわず、理想的なプレーをする準備が整っているかどうかに基づいて行っている、という。

今年夏、ハティーブがロシアのテレビ局からの依頼でロシアW杯の取材の仕事が入っているという理由で、オーストリアでの代表チームのトレーニングキャンプに参加しなかったことを、シュタンゲは批判していた。そして、(*ロシアのテレビ局の仕事を終えた)ハティーブが代表キャンプに合流することを認めず、続いて今回、アジアカップのメンバーからも外したのだ。

失った二つの目標

ハティーブは、オーストラリアとのプレーオフに敗れ、W杯出場の夢が潰えたのに続き、UAEで開催されるアジアカップに出場する機会も失った。この大会は、36歳の彼にとって、プロ選手としておそらく最後の国際的舞台となるはずだった。

今回のメンバー落ちで、おそらくハティーブはサッカー選手としてのいくつもの目標を失うことになるだろう。ハティーブが最初に目標を失ったのは、2017年、政治とスポーツは切り離されるべきだという声に応じ、代表チームに帰還したときだ。彼は2012年にクウェートでシリアの反体制派が開催した式典でスピーチし、次のように話していたのだ。「シリアのどこであろうと砲撃が続けられている限り、私は代表チームで決してプレーすることはない」

ハティーブの代表復帰は、反体制派の人々から広範な批判でもって迎えられた。とりわけ2017年10月、代表チームメンバーをアサド大統領が出迎え、選手一人ひとりの胸にウェアの上からサインをしたとき、強い批判の声がわきおこった。そのとき、選手団の中には、ハティーブ同様、政治とスポーツを切り分けるといって復帰していたオマル・スーマの姿もあった(*冒頭の写真がそのときの様子)。

同様に、アジアプレーオフでオーストリアに敗れ、ロシアW杯に出場するというサッカー選手としての目標も潰えた。

ところが、ハティーブは、スポーツ解説者というゲートからロシアに行ってしまった。今回のメンバー落ちによって、ハティーブはアジアカップに出場するという選手としての最後の目標も失ってしまった。あるいは、シリアをアジアカップ本大会出場へと導いた選手という称号さえも失くしたのかもしれない。

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