ロシアW杯アジア3次予選当時のシリア代表の姿を追ったESPN(執筆者はスティーヴ・ファイナル氏)の長編ルポルタージュの4回目です。戦争は代表選手のサッカー人生も狂わせましたが、今回はシリアの現状を体現するかのような歩みをとった二人の選手の話。
フィラース・ハティーブ(1983年生まれ、ホムス出身)とフィラース・アリー(1985年生まれ、ハマ出身)の二人のフィラースの話です。同世代で、戦争勃発当時、共にシリア代表でプレーしていました。ハティーブは、政府軍が自国民を爆撃していることに抗議し、代表でプレーすることのボイコットを表明したものの、5年後翻意して復帰、W杯予選のシリアの快進撃に大きく貢献しました。
一方、アリーは、政府軍の攻撃により親戚が殺害されたことを機に、代表でプレーしながら同時に反政府デモに参加するようになりますが、ある日衝動的にチームから離脱、そのままトルコに逃れ、今も(記事取材時点)同国の難民キャンプで家族と共に生活しています。
記事では、戦争にサッカー人生が翻弄される中、重い選択をして生き抜く選手の思いに触れることができます。
全編の中でも、おそらく最も充実した内容の回です(まだ最後まで読んでいないので確かなことはわかりませんが)。次の展開が気になって夢中になって読み進めました。
ハティーブとアリーのその後(というかこの記事が発表された数カ月後)のことについては、以前ブログでも紹介したNHKのドキュメントで知ることができます(サッカーシリア代表 “英雄”と“裏切り者”の狭間で – 記事 – NHK クローズアップ現代+)。
独裁者の代表チーム(4)
掲載紙:ESPN アラビア語版
掲載日:2017年7月2日
執筆者:スティーヴ・ファイナル
URL:
https://www.espn.com/espn/otl/story/_/id/19409348/how-syrian-government-brought-soccer-campaign-oppression-arabic
(小見出しは訳者によるもの *は訳注)
第4回(全6回)
「やってしまった」 トルコ・カルカミス難民キャンプにて
2012年7月に、フィラース・ハティーブが今後シリア代表としてプレーすることはないと表明したのは、彼の故郷ホムスが炎上したことを受けてのことだった。ホムスは中西部に位置するシリア第3の都市で、「革命の首都」と呼ばれていたこともある。
その前年、独裁者バッシャール・アサド政権に抗議するデモがシリア全土に広がったが、アサド政権は非道な力でもってこれに応じた。政府のこの対応が内戦の導火線に火をつけることになった。そしてその内戦は、今では、超大国、外国人テロリスト、軍事リーダー、武装民兵、そしてフリーダムファイターらがごた混ぜになって入り乱れるという事態を生み出している。
目撃者や反体制活動家によると、アサド政権によるホムスでの焦土作戦では、強姦や兵糧攻めといった犯罪行為が行われた。一部の住民は救出されるまで木の皮を食べて飢えをしのがざるをえなかった、という。民間人の大量虐殺も行われた。複数の目撃者によると、アサド軍は民間人を根絶するため巡回していた、という。
ボイコット
ハティーブはシリアにおいて最も重要で傑出した人物である。そして、最も有名なサッカー選手でもある。若い頃から国民的スターだった。10年以上前からシリアを飛び出し、ベルギーや中国などでプレー、現在は、クウェートに居住している。クウェートでは、国内リーグの年間ゴール新記録を達成している。ハティーブは、サッカー選手として得た報酬でホムスの人々への支援、たとえば通りの建設などを行っており、その通りは「ハティーブ通り」と呼ばれている。また、グラウンドやモスクには彼の家族の名前がつけられているものもある。
ハティーブは国外でのプロ生活で何百万ドルもの金を稼いできたが、常にシリア代表としてプレーし続けてきた。
「一度代表としてプレーしたらわかるよ。2400万人もの人が見てくれるんだよ。そして2400万人が応援してくれ、勝利のために力になってくれるんだ」
ハティーブのシリア代表をボイコットする意思の表明は、クウェートで開かれた集会の場で行われた。それはアサド政権に対する強烈な一撃となった。革命旗をあしらったマフラーを身につけたハティーブは、響き渡るような声で大勢の集会参加者の前で告げた。
「ここにはマスコミの方もおられます。その前で、ぼくは表明します。シリアのどこであろうと爆弾が投下されている限り、今後ぼくはシリア代表としてプレーすることはありません」
すると、参加者の一人がハティーブを肩車で持ち上げ、会場は「アブー・ハムザ」と叫び出した。「アブー・ハムザ」とはハティーブのことで、彼の長男ハムザのお父さん(アブー)という意味だ。
「アッラーがあなたを祝福なさいますように。おおアブー・ハムザよ、アッラーが祝福なさいますように」
復帰の理由
ハティーブは現在、アルクウェートSCでプレーしている。クウェートでは4番目(*の規模)のクラブである。2月のある日の午後、クラブの練習場の近くで、ハティーブは今回再びシリア代表に復帰することについて語った。かつて、政府による残虐行為や戦争犯罪(市民に対する犯罪行為は現在も続いている)に対して自らの立場を表明していたことをどう説明するのか。
「事態は複雑すぎてね、このことについて話すのは難しいです。申し訳ありません、ほんと申し訳ないと思っています。何もお話ししない方がよいのです。それはぼく個人の安全のため、あるいは家族や故郷、みんなの安全のためにね。だから、そのことについてお話しすることはできないのです」
だが、ハティーブはいくつかのヒントを与えてくれた。
この6年もの間、ハティーブ通りに足を踏み入れことはない。病気のためシリアを離れることができない父親とも会っていない、という。
「ぼくのこれまでの人生の中で、今が最もつらい時期です。ぼくは祖国の代表になりたくて、また、政府もしくは反体制派のどちらかを支援したくて戻りたいわけではないんです。シリアに戻りたいのは、ぼくがシリア人だからです。最後に父の顔を見たい。きょうだいたちに会いたい」
また、ハティーブは、彼の故郷のクラブ、カラーマのリーダーとしてホムスに戻ることを夢見ているとも語った。
代表ボイコットを表明した当時(*2017年7月)、多くの人たちは、アサド政権の崩壊は時間の問題だと考えていた。「革命はシリアを発展させ、国力を強くするための本当の意味での革命である。人々はより良い生活を望んでいる」と。しかし今や、アサド政権の支配は安定している。体制側はホムスだけでなく、2016年11月までにアレッポも掌握、国内の人口が集中している大半の都市を支配したことになる。
(*内戦勃発以降)ダマスカスとラタキアの2都市に限って行われてきた国内リーグも、新たに他の地域でも開催されるようになった。(*2017年)1月下旬には、イッティハードとフッリーヤというアレッポを代表するライバルチームどうしの試合が、2012年以来初めてアレッポで行われている。政府はこの試合を、シリアが再び平常を取り戻しつつあることの現れだとして、祝した。
ハティーブは次のように続ける。
「殺害が停止され、犠牲者数をカウントするメーターの数字が止まるまで、代表では決してプレーしないと、ぼくは言いました。みなさんは、何がぼくを変えたんだと聞きますよね。サッカーに関する事情からぼくは意見を変えたのであって、政治的な理由からではありません。ぼくはもう一度あの幸福感を感じたい。シリアの人々も、幸せを感じるものを必要としていると思うのです。今はシリアにおけるあらゆるものが、われわれに悲しみと苦悩をもたらすようになっていますからね」
シリア代表の次の試合までに、チームに合流するかどうか決めるための、彼に残された時間はあと5週間だ。マレーシアで行われた韓国戦(*ロシア・W杯アジア3次予選の第2戦)で引き分けて以降、チームは、中国に勝利しイランとは引き分けた。代表監督は、W杯にシリアが出場することは十分可能だ、とコメントしている。
市民を拷問し、爆撃し続けている政府の代表チームの一員となることが、あなたはどうしてできるのか。政府は「あなたのファンとあなたを愛する人々、それにスポーツをするあなたの仲間たちを殺害しているんですよ」と質問をぶつけた。
ハティーブは言った。「難しい質問ですね。一番難しい質問です。ほんとそれについてぼくはお話しすることができません。信じて欲しいのですが、本当はお話したいんです。でもできないんです」
難民キャンプの代表選手
別の選手たちにとって、アサド政権のシリア代表に参加すること、それは許しがたい裏切りである。
フィラース・アリーもそう考える選手の一人だ。
元シリア代表DF、フィラース・アリーは、「ぼくはかつてシリアは地上の楽園だと思っていました。しかし今はそのシリアで生活していません。あの国はいかなる意味でも楽園なんかではありません」と話す。
カルカミス難民キャンプは、監視のゆるい刑務所のようなところだ。トルコ南部のシリアとの国境沿いに位置しする。トルコ政府が管理するキャンプの周囲には、灰色の壁と有刺鉄線が張り巡らされている。ここに難民6886人(うち子ども1963人)が生活している。彼らは別の避難場所及びそこに向かう手段さえ確保できれば、いつでもキャンプを出てゆくことができる。
アリーはシリアでは3軒の家を所有していた。現在は、太陽の下、規則正しく張られた数百のテントの中の一つ、白いテントの中にあるのが彼の持ち物のすべてだ。アリーの住むテントは隣のテントと比べ、大きくの小さくもない。
ただ、テント内部は、とても整理整頓されている。白のレースのカーテンで壁をおおい、木の床にはオリエント風の絨毯を敷いている。居間として使用している場所は馬の蹄鉄のような形をしており、バラの花の刺繍がほどこされたクッションが置かれてある。ホットプレートには銀製のポット、その横には13インチテレビと小さな冷蔵庫がある。31歳になるアリーは、妻と3人の子どもたちとともに、このカルカミス難民キャンプで3年前から暮らしている。一番下の娘アーイシャはここで生まれた。
額にかかる黒い髪のアリーはプロのスポーツ選手らしい優雅さをたたえている。このプロサッカー選手のことを身近で見てきたものにとって、彼が現在置かれている悲劇を理解するのは難しい。彼のファンたちもいるこのキャンプに来るまで何があったのか。
アリーは、ダマスカスの名門クラブの一つ、シュルタSCの選手で、年12万5000ドルを稼いでいた。これはシリアの平均年収から見るとかなりの高額となる。
アリーは言う。「ぼくは、国内にいる2300万もの人たちの中の20人に選ばれるすぐれた選手でした。有名人で、どこへ行ってもぼくのことをみんな知っていました。フィジカル面でももう最高の状態だったんです。家族と名声も手にしていました。国外に出て行くなんて、これっぽちも考えたことありませんでした」
二重生活
今のアリーは難民だ。家族はトルコ災害緊急事態局からの支援を受けている。アリーは、代表でプレーすることよりもキャンプでの生活の方がマシだと言う。2011年、アサド政権軍による彼の故郷ハマに対する攻撃で、いとこのアブドゥッラーが殺された。反政府デモに参加しているときのことだった。大学で地理学を学ぶ19歳の若者だった。
アリーはそのときのことを次のように話す。「銃弾がアブドゥッラーの頭部から両目を貫通していたんです」。そのあと、樽爆弾(ガスを充満させたドラム缶)が降ってきた。政府軍のヘリコプターから数千缶が投下されたのだ。そのうちの一つが姪の家に落ちた。台所にいた姪は焼き尽くされた。アリーは数分後、姪の家に駆けつけた。
「ぼくが見つけたのはバラバラになった手足だけでした。悪夢を見ているようでした。姪は太っていて体重が90キロくらいあったのですが、彼女の遺体を見つけることはできませんでした」
このあとアリーは反政府デモに参加するようになる。だが顔をおおって参加していたため、誰からもフィラース・アリーだと気づかれることはなかった。
アリーは相反する二重生活を送っているように感じるようになる。つまり、通りではバッシャール・アサド政権に反対するデモに参加しているのに、スタジアムではその政権の代表チームの一員となっているのである。
ある朝のことだ。アリーはダマスカスのアッバーシーン・スタジアムで行われる練習に参加していた。ピッチが軍の施設に接収されるところを目の当たりにした。
「スタジアムの半分われわれに分け与えられましたが、残り半分は、シリア陸軍第4師団に接収されました。これはこの目で見たことですよ! 軍はわれわれ選手たちに割り当てられていた場所にも重火器を設置しました。そして今までぼくらがトレーニングをしていたその場所から、デモ隊を鎮圧するため出動していきました。スタジアムの中からは、銃撃音や砲撃音が聞こえてきました。デモ隊はいかなる武器も持っていません。まったくの非武装でした。当時、武器を所持していたのは政権側だけです」
シリア代表監督のファジル・イブラーヒームはアサド政権への忠誠心が人一倍強い人物だった。W杯予選の試合前日の記者会見に、大統領の写真が入ったシャツを着て現れたこともあった。アリーによると、イブラーヒームは、反体制派やデモは粉砕されなければならないと率直に語っていたそうだ。そして、選手たちにこんなことも告げていたという。試合で勝つことは、シリアにおいてこのようなデモが何の影響も与えていないことを全世界に示すことになるんだと。
選手たちは分裂していく。アリーは当時の現場において、強く感じてきた失望、挫折、無力感といった感情についてこう語る。
「ぼくらは、自らの手でぼくら自身を破壊してしまったのです。当時のぼくは混乱していました。周囲では身内や友人たちが死んでいっていたのですから」
その頃、アリーは、ダマスカス中心部ハムラー通りにあるブルータワーホテルにときどき宿泊することがあった。寝付けないある夜のこと、政権軍がダマスカスのあちこちの地区を爆撃するさまを、ホテル8階の部屋の窓から息を飲んで見つめていた。
「まるでテレビのホラー映画のような光景でした。本当に怖かった」
脱走劇
別の夜、インドで開催される大会に備えるシリア代表のトレーニングキャンプ期間中のことだった。アリーは電話で、政権軍のハマ市郊外のある村に対する攻撃で、13歳になるいとこアラーが死んだと知らされた。
30分後、アリーは他のメンバーとともに夕食会場におもむいた。食事中、メンバーの一人が反政府デモをからかうようなことを口にした。アリーはスプーンを投げつけた。チームメイトが二人を引き離すまで、殴り合いのけんかが続いた。
アリーは部屋に戻ると、家族に電話をかけた。
「ついにやってしまったよ」と電話に出た姉(*妹かもしれません)に告げた。
「何をしたの?」姉が聞く。
アリーは答えた。「もうこれ以上、代表にいるなんて無理だ」
アリーのきょうだいが、翌日朝8時半きっかりにアリーを連れ出すための準備を整えた。代表チームの宿泊所から、反体制派の支配地域に脱出する。途中、サッカーのスター選手である彼のことを知る兵士たちが詰めていた検問所を通過したが、兵士たちはアリーが体制側から離脱しようとしているとは思いもしなかった。アリーは家族とともに国境を越えトルコに渡った。
アリーは自由の身となったが、すぐに新たな困難に直面することになる。
「ぼくは複数の銀行にかなりの金額を預けていたんですが、国外に出たことが知れると政府はそれを没収してしまったのです。また所有していた3軒の家も破壊されてしまいました…土地も今は残っていません…これまで稼いできた資産は風のように消えてしまいました。もう何もありません」
アリーは、カルカミス難民キャンプの「商業モール」とでもいうべき場所に座わっている。「モール」は薄い木材でできた屋台が連なり、生鮮食品はもちろん、缶詰、調理器具や発電機まで、ここではなんでも売られている。売り子たちが焼いた肉料理を持ってきたりしている。
アリーはこのキャンプで、子どもたちにサッカーを教える役目を引き受けている。子どもたちは、キャンプにいる有名なスター選手のもとに喜んで集まってくる。朝の遅い時間帯、日差しが砂漠の空をおおう霧を消し去る頃、アリーのもとには30〜40人の子どもたちを集まってきた。ガラスの破片が散らばるコンクリートで舗装された地面の上で、柔軟体操やランニングを始める。ときおり、ボールがアリーのもとに転がってくると、彼は全盛期の選手時代のような見事な身のこなしでボールをさばいていた。
アリーは今のシリア代表に参加することに関する自らの意見をわれわれに話してくれた。
「ええ、難しい問題ですね。でもぼくはまったく後悔していません。あの男の写真の入ったウェアを着て、あの旗のもとにプレーいる人たちは何を感じているんでしょう。あの男こそ、国民を犠牲にし、700万人以上もの人々を流浪生活に追い込んだ張本人じゃないですか」(続く)