今回は久々にパレスチナ関係の記事です。この記事でぼくも初めて知ったのですが、ある日突然不当に逮捕されたパレスチナ代表にも選出されたことのある若い選手が、獄中でハンスト闘争を行い、世論の後押しを受けて釈放されたということがあったんですね。
パレスチナでは日々イスラエル側によって不当な扱いを受けていることが報じられていますが、サッカー選手も例外でない、というかむしろサッカー選手だからこそ余計不当な扱いを受けることがあるようです。それは、サッカーはパレスチナにとって単なる一スポーツではなく、自分たちの境遇を国際社会に訴える手段になっているからだと、この記事では指摘しています。
記事は、冒頭で、抽象的というか詩的表現が続き、マフムード・ダルウィーシュの詩なんかも引用されているんですが、ぼくには読んでもよくわかなかったので、かなり割愛しています。
サッカー…パレスチナの大地の声
掲載紙:マヤーディーン
掲載日:2020年3月30日
執筆者:ハサン・アティーヤ
URL:https://www.almayadeen.net/news/sports/1389119/كرة-القدم—صوت-للأرض-في-فلسطين
(*は訳注)
パレスチナ人サッカー選手の一群が、明白な容疑も示されずイスラエルの監獄で抑留生活を送っている。だが、そんな彼らの存在はスポーツ界、あるいは囚われの身となっている人たちの自由をうったえる声なのだ。
サルサクとその仲間
マフムード・サルサク(33歳)は、パレスチナという物語の主人公の一人である。サルサクはパレスチナ人のサッカー選手であり、同時に、解放された元囚人だ。ガザ地区に生まれ、子どもの頃からサッカーで遊ぶことに夢中だった。8歳で ラファSC(*ガザ地区のサッカーチーム)に加入、その6年後、14歳のとき、史上最年少でパレスチナ代表選手となった。
2009年、サルサクは、シャバーブ・バラータSC(*西岸地区ナブルスにあるチーム)に合流するため、西岸地をめざそうとしていた。新たなチームのもとに向かうその途中、エレス検問所(*ガザ地区とイスラエルの国境にあるチェックポイント)で彼はイスラエル占領軍によって逮捕され、取り調べのため、アシュケロン(*イスラエル南部にある都市)のセンターに移送された。
はっきりとした容疑も示されることなく、2年半もの間、鉄格子の中に押し込められることになった。だがサルサクはここでたたかうことを決意した。ハンガーストライキを始めたのだ。ハンストは、健康状態が悪化するまで96日間続いた。これにより、サルサクの釈放を求める声が高まった。
イスラエル側はサルサクを懐柔するため、ノルウェーへの出国を提案してきたが、彼はこれを拒否、2012年7月、ついに自由を勝ち取った。サルサクのたたかいは、パレスチナの若者が置かれている現状を表したものだ。彼らはいつもパレスチナの苦悩を背負っている。サルサクは出獄後、エジプトのイフリキーSCに加入している。
サルサクのケースは、シオニストの処刑人のムチのもとで拘束されている他の大勢のスポーツ選手の状況と違いはない。サルサクの家族は、サルサクの身に起こったことは彼自身の問題にとどまるものではなく、シオニスト占領体制の刑務所にあふれかえる何十人ものアスリートの問題でもある、と話している。
パレスチナ代表のサーミフ・マラーアバもまた、イスラエルの妨害行為の犠牲者の一人だ。容疑もサルサク同様、「非合法戦闘員」の疑いというものだった。2014年4月、代表メンバーとともにカタールから帰国したところを逮捕された。
同じ年、イスラエル占領軍は、ジョウハル・ハラビーヤ、アーダム・ハラビーヤの2選手に向けて発砲している。二人はアブディス(*エルサレムに隣接するパレスチナの村)のユース代表メンバーだった。軍は二人がクラブの事務所を出たところで拘束し、 シオニストの刑務所に連行していった。
このとき、アーダムは消音銃によって足に2発の銃弾を打ち込まれ、ジョウハルはアーダムを助けに向かったところを、左足に7発、右足に3発撃たれた。その後二人は治療のためヨルダンの病院に運ばれたが、帰国したところを軍は二人を逮捕した。理由は示されなかった。
イスラエル側は、スタジアムや観客席が、不正や悪性の実態に対して人々が声をあげる場となっていることを知っている。それゆえ実態を隠蔽しようとしているのだ。だが、自由を求める声は、沈黙しておらず、今後もけっして沈黙することはないだろう。彼らは永遠に掲げ続けるだろう。パレスチナはアラブの大地、エルサレムはその首都だ、と。