ジハード・フセインの引退

シリア代表

去年10月、また一人、シリアサッカーのレジェンドが現役を引退しました。ジハード・フセインという選手です。引退後、初めてメディアの取材に応じたジハードですが、そのメディアとはシリア反政府系ネットメディアでした。

ジハード・フセインは1982年、シリア中部の都市ホムスの生まれ。現在38歳。2000年代後半、国内のみならずアジアの主要大会でも席巻した、ホムスの名門カラーマSCの主力として活躍、2009年に湾岸諸国のクラブに移籍、おもにサウジアラビアリーグでプレーし、同国リーグの最多アシスト記録も有しています。2019年に引退した同郷のフィラース・ハティーブの盟友的存在の選手でした。

今回の記事では政治的なことについては一切触れていませんが、真っ先に反政府系メディアの取材に応じたこと自体、一つの意思表明ととらえることもできるかもしれませんね。

ジハードといい、ハティーブといい、サッカー選手としてキャリアのピークに祖国の代表チームに加わることができなかったのは、本当に残念なことです。ハティーブは、最後の最後で代表に復帰できたからまだ救われますが、ジハードの場合そういう機会もありませんでした。

なお、日本が優勝したアジアカップ2011(開催国カタール)で、日本はグループリーグでシリアと対戦しています。後半、不可解な判定によるPKで一度はシリアに追いつかれたものの(PKを決めたのはハティーブ)、その後本田がPKを決め、日本が2−1で下しています。この試合、ジハードも出場していたようです。大会は2011年1月に開催していますから、シリアで反政府運動が始まるのはその2か月後ということになります。

(下の写真 アジアカップ2011のグループリーグ、日本戦でプレーするジハード・フセイン)
Embed from Getty Images


ジハード・フセイン引退後初インタビュー「カラーマに恩返ししたい」

掲載紙:イナブ・バラディー
掲載日:2020年10月31日
URLhttps://enabbaladi.net/archives/428144
執筆者:ヤーミン・マグリビー

(文中*は訳注)

2006年、シリア中部の都市ホムスのハーリド・ブン・ワリードスタジアムのロッカールーム。ジハード・フセインは、アジアチャンピオンズリーグ決勝で敗れた直後、床に座り込んで泣いていた。「中盤のマエストロ」(*ジハード・フセインのこと)は、タイトル獲得まであとわずか1点届かなかった。もし、カラーマがこの大会で優勝していたら、シリアサッカー史上最高の成績となるはずだった。

メディアのカメラがとらえたあのシーンから14年後となる10月25日(*2020年)、ジハードはビデオメッセージを通して、現役から引退することを発表、シリア最高の選手と評された自らの旅の終わりを告げた。

チャンピオンズリーグ決勝での敗戦はその後、ジハードにとって強いモチベーションとなった。カラーマの一員として、国内リーグで他の誰もが成し遂げていない、数々のタイトルを手にした。2009年、湾岸諸国でプロ契約を結び移籍、クウェート、UAE、サウジアラビアの各リーグで挑戦を続けた。

現役引退後、初めてのメディア取材となる「イナブ・バラディー」のインタビューで、ジハード ・フセインは世界のサッカーの未来やカラーマに戻ってくる可能性について、あるいはSNSを利用しない理由などについて語った。

ピークでの引退

ジハード・フセインは、アジア最強のクラブチームに所属し、サウジアラビアリーグの最高のゲームメーカーと格付けされるなど、自らのキャリアのピークに差しかかっているこの時期、現役を引退することを決めた。ジハードは、いずれもアジアのビッグクラブである、ナジュラーン、タアーウン、ラーイドなどのクラブの一員として、サウジリーグで49のアシストを記録、これは同リーグの最多記録だ。

ジハード・フセインは「イナブ・バラディー」の取材に対し、引退は所属クラブ(ラーイドSC)と話し合った上で決めたことであり、今後別の立場から同クラブに関わることになると話している。

指導者の道へ

アラブとシリア国内のクラブにおいて、幾人ものシリア人指導者、たとえば、ニザール・マフルース、イマード・ハーニカーン、ムハンマド・クワイドらが結果を残している。

そして、ジハードも引退発表の後、指導者の世界に進むことを決めており、すぐにベルギー人監督(*正しくはアルバニア人)ベスニク・ハシが指揮を取るラーイドSCのコーチングスタッフに加わった。ジハードは、著名な監督とともに指導者としてのキャリアをスタートすることができるのは大きなチャンスだと考えている、と見ている。

また、ジハードは、引退した他の選手のように解説者の道に進むことについて、この分野には関心がないとして、これを拒否した。

とはいえ、ジハード・フセインの指導者としの道は決して簡単なものにはならないだろう。とくに湾岸諸国においては、自国のレベルアップのため(*アラブ人以外の)外国人監督の招聘に傾いている。たとえば、サウジアラビアのヒラールで指揮を取ったブラジル人(*正しくはポルトガル人)のジョルジェ・ジェズス、同じくサウジアラビアのイッティハードで監督をつとめたスラベン・ビリッチ(イングランドのウエストでも指揮を取った)らである。

ジハードも「イナブ・バラディー」の取材にこたえ、自分の仕事は決して簡単なものではないし、とりわけ、レベルが発展している国のコーチとなれば難しいものになる。そういった国のクラブは、ビッグネームを持つヨーロッパ人監督を招聘することを優先するからだ、と強調している。また、ジハードは、シリアのスポーツ界は湾岸諸国の指導者のように、マーケットとしてもっと整備される必要があると見ている。

カラーマはわが家

ジハード・フセインは、シリアサッカー史上最高のチームと言われ、2005年から2009年にかけての「栄光のカラーマ」の主力メンバーだった。

ジハードの引退発表の後、シリア国内では、同国中部の都市ホムスにある、古巣クラブへの復帰を求める声が高まっている。ジハードはこの件について、こうコメントしている。

「カラーマはぼくにとってわが家、あるいはよき友人のような存在です。恩返しのためにいつかは復帰しなければならないと思っていますし、ぼくの心は、このクラブのすばらしいサポーターとともにあります。しかし、今はまだ復帰するには適当な時期ではありません」

ジハードが引退を表明したビデオメッセージの中で、所属クラブのラーイドSCは、ジハードがチームの一員として過ごしたシーズンに関して謝辞を述べた。すると、カラーマの一部のサポーターから、ラーイドSCが古巣カラーマやカラーマへの感謝について言及していないとして批判の声が上がっている。

ジハードはこの批判に対し、「イナブ・バラディー」に対し、こうこたえている。

「ぼくはそういった批判の声があることについては知りません。ただ、あのビデオメッセージは個人的なもので、クラブの公式なものではないのです。だから、ラーイド在籍中のことについてしか言及しなかったのではないでしょうか」

ジハードはこれまで、カラーマ在籍中の2006年から2008年まで3年連続でシリア最優秀選手賞に選ばれた。また、この3年間、カラーマはリーグ戦3連覇を達成し、2007年、2008年にはシリアカップでも優勝、2006年には、アジアチャンピオンズリーグで準優勝している。

SNSは利用しない

SNS上には「ジハード・フセイン」の複数のアカウントが拡散しているが、これらは架空のものだ。というのもジハードはネット上ではいかなるウエブサイトやSNSのアカウントも持っていないからだ。SNSを利用しない理由について、ジハードは、現実の明白な形での関係性の方がぼくの性に合っているんです、と話している。

コメント

  1. […] ジハード・フセインの引退 より […]

タイトルとURLをコピーしました