イスラム教が寛容な宗教というのは本当だろうか

今回紹介する記事は、アル=サフィールが2016年12月19日に配信した、レバノン・パレスチナ難民キャンプ内モスクの金曜礼拝での出来事に関するコラム。女の子たちがサッカーをするのを、大人たちがみんなで寄ってたかって非難したという内容です。
علي دربج | خطبة عن فتيات يلعبن كرة القدم :: الأخيرة | جريدة السفير

イスラム国などのテロ事件が起こるたびに、マスコミに登場するイスラムの専門家などから、「いや、本来イスラム教は平和的な宗教です。寛容なんです。テロに走る連中は真のイスラム教徒ではありません」といった解説を聞くことがあります。

おそらくそれは間違いではないのでしょう。たとえば、中東地域を旅行した人の多くは、旅行前に抱いていたイスラムやその社会の怖いイメージと、実際自分の目で見たこととのギャップに驚かされます。テロとか不寛容とは対極にあるような社会ではないか。そして、彼らの親切心や熱い気持ちに魅了される人は多いと思います。ぼくもその一人です。

しかし、そうはいっても実際にはイスラムの名のもとに凶悪な事件が続いているのは事実。そんなものイスラムからの逸脱だ、まともなイスラム教徒なら誰も共感しない、そもそもジハードの本来の意味は…云々、といくら力説したところで説得力に今一つ欠けるように思います。

テロとまでいかなくても、中東には、経済的な格差は大きく、政治的には腐敗し、社会的には不効率な現実があり、どこも問題山積であることには間違いありません。それらにイスラム教の実態がどれだけ関与しているのかは別としても、何の問題もないかのように、現実の問題に向き合おうとしないのもどうかと思います。

今回紹介した記事を読んでも、今日、イスラムの指導者の中には明らかに時代錯誤というか、不寛容な面を前面に押し出すものがおり、しかもそういった言動を人びとはわりと支持しているのではないかと思わせる現実を垣間見ることができます。

女の子たち(というかまだ子どもに過ぎない)がサッカーをしただけで、こんなにも攻撃されなければならないなんて、フットボールを愛するものからすると、腹立たしい話です。


元記事URL:
http://assafir.com/Article/520672/Archive

アル=サフィール紙のロゴ

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サッカー少女を罵倒する金曜礼拝

2016年12月19日
アル=サフィール(レバノン)
アリー・ダルビジュ

ブルジュ・アル=シャマーリーキャンプへ行く途中、あるモスクに通じる道を中心に車の渋滞が目に飛び込んでくる。ある店の主人にそのことについてわたしが尋ねようとしたが、その前に、主人にこう言われた。

「申し訳ありません。もう店を閉めなきゃならないんです。今日は金曜日で、商売より大切な礼拝がありますからね。また今度来てください」

わたしは先を進んだ。ほどんと同時に、キャンプ中に声が響き渡る金曜礼拝のフトゥバ(説教)がはじまった。わたしは説教の内容には関心がなかった。自らを穏健派と称するパレスチナのイスラム団体の一つに属しているこのハティーブ(説教師)は、どうせパレスチナ情勢やアル=アクサー・モスクのアザーン禁止問題、女性や子どもたちが日常的に(訳注:イスラエルによって)殺されていること、そして長く続くこれらテロ行為に対する国際社会の沈黙といったお決まりの話題に言及するのだろうと思っていたからだ。

ところが、説教師の言葉を耳にした途端、わたしは車の中で座り直し、彼の話に耳を傾けることになった。説教が、キャンプで数人の少女たちがサッカーに興じたことをテーマにするなんて、わたしは初め自分の耳が信じられなかった。この説教師は、ありとあらゆる罵詈雑言を少女たちに浴びせかけた。後で知ったが、その少女たちのうち最年長者でさえ、まだ13歳だったという。

次第に説教師の声のトーンはヒートアップしていった。彼は脅迫や威嚇も忘れなかった。あるときは少女たちが習慣や伝統に反していると言い、またあるときは神と預言者の教えに背いていると言っては告発した。彼女たちのやったことは神への冒涜であると決めつけ、恥ずべき行いをしたこの少女たちを叩き直せと聴衆に呼びかけた。聴衆の中からは、すぐに「アッラーフ・アクバル(神は偉大なり)」の叫びが、説教師の言葉に呼応するようにあがった。

キャンプの住民たちが飲む汚染された水、ボロボロの住居、通りにあふれるゴミの山、サラセミア(訳注:血液疾患の一種みたい)の増加、そして貧困の拡大やとりわけ学卒者における失業問題。これらによって引き起こされていること、あるいはその解決を願う当事者たちの要求について、この説教師は関心を向けることはなかった。

彼の関心の針の先はパレスチナ問題にではなく、気晴らしをしたり、お気に入りの趣味に興じることを欲したという、たったこれだけの過ちを犯した少女たちのグループに向けられているのだ。

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