前回の投稿で、反体制派への支持を表明し、代表でのプレーを拒否しているシリアの有力3選手について紹介しました(「革命支持」表明したシリア主力選手)。今回そのうちの一人フィラース・ハティーブ選手の近況について、反体制派メディア「イナブ・バラディー」の記事から拾ってみました。
ハティーブ選手は、2011年にシリアで反政府運動が発生した当初から、反体制派支持、反アサド政権の立場を公言していましたが、2017年3月のワールドカップ予選ウズベキスタン戦で代表復帰を果たしました。
この試合、シリアが試合終了間際にPKを獲得、これを決めて劇的な勝利をおさめたのですが、このPKをもぎ取ったのがハティーブ選手でした。ペナルティーエリア左をハティーブ選手が猛然と突破。ビデオで見ると、相手ディフェンダーに倒されたというより、自分から当たりにいっているようにも見えますが、シリア代表の勝利に向かう気迫がほとばしった、見るものの胸を打つシーンでした(インターネットで動画配信していたので生で見ました)。
早くから反体制派支持を明確にしていたハティーブ選手の代表復帰に対しては、今回紹介した3記事を読むと、批判の声があるようです。彼の中でどのような変化があったのかは知りません。
しかし、ぼくが思うに、ハティーブが支持を表明した2011年、2012年のシリアの反体制派は、今日まったく別の集団に変貌しています。少なくとも「革命」当初は、暴力的な手段で反政府運動を押さえつけようとするアサド政権側に対し、止むに止まれず武器を手にした市民の抵抗という外形をまとっていました。
ところが6年上経って、現在の様相はまったく違います。反体制派の中心はイスラーム国、シャーム解放機構、シャーム自由人運動といった、いずれもアルカーイダに出自を持つ過激な武装集団です(しかも外国人が指導的な地位にあり、援助者はもっぱら湾岸諸国)。シリアの市民を代表してたたかっているという面はかなり弱くなっているように思います。もはや誰が何のためにどのような「革命」をしようとしているのか、わけがわからなくなっているのが現状だというのが、ぼくの認識です。
このような反体制派からの「退却」が、非難に値するものかどうか、疑問です。
フィラース・ハティーブ選手は代表に復帰しただけでなく今年8月、シリア西部の都市ホムスの名門クラブ「カラーマ」に移籍することも発表されています。カラーマはハティーブ選手の古巣でもあります。
また、真偽のほどはわかりませんが、2つ目の記事に出てくるシリアサッカー連盟幹部は、ハティーブ選手同様、代表でのプレーを拒否しているといわれるオマル・スーマ選手も、復帰には同意しているかのようなことを言っています(ぼくがアラビア語を誤読しているわけではないと思う)。
事実とすれば、シリアの奇跡のワールドカップ出場に向けて、大きな影響を与えうるニュースだと思いますが、はてどうなんでしょう。
元記事URL https://www.enabbaladi.net/archives/128965
フィラース・ハティーブ シリア代表復帰か
掲載紙:イナブ・バラディー
掲載日:2017年2月3日配信
(文中✴︎は訳注)
SNS上で、FWフィラース・ハティーブが近く代表に復帰するとのニュースが広がっている。
クウェートのクラブ「アル=クウェート」に所属するハティーブは、今週火曜日(✴︎2017年1月31日)、「ロシア・トゥデイ(RT)」のインタビューに応え、「祖国の代表になることは、すべての選手にとって名誉なことだ」と語った。
一部では、この発言はハティーブが代表チームに復帰する準備があることをシリアサッカー連盟に向けて発したメッセージではないかとみられている。
また、ハティーブは、過去、代表でプレーしてこなかったのは、連盟から招集されなかったのが理由だと明かし、「これまでこの件について、連盟からぼくには何の接触もなかったんだ。だから接触してこなかった連盟には文句を言いたいね」と語った。
そして、「招集があれば、あるいは、現在ぼくがプレーしているアル=クウェートに対し、連盟から正式の申し入れがあれば、その時点で正式に検討することになるが、そうなれば招集を受け入れるのは当然のことだ」と強調した。
ハティーブは先週、自身のフェイスブックを通じて、代表に復帰するかどうかは連盟が決めることだが、世界中の選手は代表チームでプレーすることを願っているものだ、と書き込んでいる。
ハティーブのこれらの発言は、過去、自分自身の判断で決めていたことを、連盟の判断に委ねることを意味するものだ。
シリア代表のアイマン・ハキーム監督は先月(✴︎2017年1月)、「この件(フィラース・ハティーブを招集するかどうか)についてはまだ最終的には決めていません。もし、ウズベキスタン戦(✴︎2017年3月23日)までに、契約面、あるいはコンデション面での条件が整っているのであれば、われわれの側には彼の招集を妨げるものはありません。彼であれ他の選手であれ、誰にも拒否権はありません(✴︎招集されればそれに応じることは義務だという一般論を言っているのだと思います)」と明言している。
フィラース・ハティーブ、ジハード・フセイン、オマル・スーマなど国外のクラブに所属するシリア代表の有力選手たちは、2011年以来、政治的な理由で代表チームでプレーすることを拒否してきた。
ハティーブは2012年、クウェートでシリアの反体制派が開催した祭典の中で、シリアのいかなる場所でも砲撃がなされている限り、代表でプレーするつもりはないと宣言していた。
元記事URL https://www.enabbaladi.net/archives/166075
フィラース・ハティーブ帰還
掲載紙:イナブ・バラディー
掲載日:2017年8月8日配信
(文中✴︎は訳注)
政治的立場を理由にシリア国外に滞在していたシリア代表のフィラース・ハティーブが、数年ぶりにダマスカスに帰ってきた。
代表チームキャプテンのアフマド・サーリフをはじめ複数の選手たちが、ダマスカス到着後のハティーブの写真を(✴︎インスタグラムなどに)アップした。
専門局「シリア・プロスポーツ」は、ハティーブが今日、サッカー連盟からの招集を受け、シリアに向けて発つ予定だと報じていた。
ハティーブは、8月31日、9月8日に行われるワールドカップ予選の最後の2試合、カタールおよびイラン戦に向け、所属していたクウェートのクラブ「アル=クウェート」でトレーニングをつんでいた。
ハティーブは、空白期間を経て数年ぶり代表チームに復帰している。これはオマル・スーマなど何人かの有力選手の代表復帰のきっかけとなっている。
ハティーブの代表復帰は、シリア革命を支持する多くの人びとの怒りをかった。人びとは、代表チームの政治的中立化を求めている他の選手たちが、その立場を守っている最中におけるハティーブの行為は、(✴︎革命の)基本原則からの退却だとみなしている。
シリアサッカー連盟副会長で、代表チーム部門の責任者を務めるファーディー・ダッバースは、オマル・スーマ、オマル・フリービーン、フィラース・ハティーブのワールドカップ予選出場への条件は整ったことを明らかにしている。
また、同副会長は、困難に直面しているが、シリアが今度のワールドカップの出場権を獲得することについて確信していると、楽観的な考えを示している。
上記3選手は、所属しているクラブのサウジリーグ、もしくはカタールリーグの試合で負傷したため、中国戦(2017年6月23日)には欠場した。試合は2対2の引き分けに終わったが、この3選手の不在が結果に影響したのは明らかだった。
スーマ、フリービーン、ハティーブの3人は、現在のシリアサッカー界の最高の選手と評されており、昨シーズン、各所属クラブでは好調を維持していた。
元記事URL https://www.enabbaladi.net/archives/166075
アサドの肖像の前で国旗を持つフィラース・ハティーブ
掲載紙:イナブ・バラディー
掲載日:2017年8月13日配信
(文中✴︎は訳注)
シリア代表のFWフィラース・ハティーブが、ホムス県知事タラール・ブラージーとの面談で、シリア政府の旗(✴︎国旗)を掲げたことを、ホムス市議会がフェイスブックに書き込んだ。
市議会が8月13日日曜日に投稿した記事の写真は、シリア政府のバッシャール・アサド大統領の肖像写真を前にして撮影されたもので、ブラージー知事、シリアスポーツ連盟ホムス支部長、「カラーマ」(✴︎ハティーブ選手が新たに契約を交わしたクラブチーム)の会長とともに、ハティーブがおさまっている。
ハティーブは、政治的立場を理由に国外に滞在していたが、先週、国内で行われる代表チームのトレーニングキャンプに合流にするため、数年ぶりにダマスカスに戻ってきていた。
市議会によると、ハティーブは、マスコミは虚偽の報道で真実を歪めている、と話したという。
同選手は2012年、クウェートでシリアの反体制派が開催した祭典の中で、シリアのいかなる場所でも砲撃がなされている限り、代表でプレーするつもりはないと宣言していた。
またこの祭典でハティーブは、シリア革命旗を掲げ、戦争で見捨てられた人々のこと、シリア国民が日々危険にさらされている砲撃のことについても語っていた。
ハティーブの代表復帰は、シリア革命を支持する多くの人びとの怒りをかった。人びとは、代表チームの政治的中立化を求めている他の選手たちが、その立場を守っている最中におけるハティーブの行為は、(✴︎革命の)基本原則からの退却だとみなしている。
ハティーブは1983年ホムス生まれ。選手としてのキャリアを「カラーマ」でスタートさせた。やがて広く知られるようになり、シリア代表にも選ばれた。その後、アラブのいつくかの首都のクラブでプロ選手としてキャリアを重ねた。