クルド人差別と八百長強要 ジハードSCのあゆみ

シリア北東部のカーミシュリーという町をホームとするクラブで、市民から愛されるジハードSC(スポーツクラブ)。クルド人が多く住む地域という特性ゆえ、過去、様々な困難にさらされてきました。そんなクラブの歴史の一側面を知ることができる記事です。


社会状況を体現するジハードSC その歴史と闘争(1)

掲載紙:SYRIA UNTOLD
掲載日:2019年3月10日
URLhttps://syriauntold.com/2019/03/10/نادي-الجهاد-نادٍ-برتبة-مدينة/
執筆者:アーラーン・ハサン、ジャーンディ・ハーリディ

(見出しの一部は訳者によるもの *は訳注)

カーミシュリー市のジハードSCは、市の歴史、闘争、そして社会的独自性と密接に関係している。クラブは同市において、社会の変遷を反映する代表的存在の一つとなっている。その歴史とは何か。「北の悪霊」のニックネームで知られるクラブは今、どんな状況にあるのか。

勝点剥奪

ジハードSCは、主にクルド問題を理由に、シリアサッカー連盟から何度も制裁を科せられてきたことで知られるカーミシュリー市の象徴的な存在だ。

「1990年代終わりには、クラブの権利を侵害する不当な制裁は、リーグ戦前半の勝点をすべて剥奪する措置にまで及びました。しかしこのときは、私たちはリーグ後半戦を尋常ならざる覚悟を持ってのぞみ、『トップリーグ』残留という結果を勝ち取ったのです」

「北の悪霊」がシリアサッカー連盟から受けた迫害についてこう語るのは、ジハードの元ベテラン選手で、のちに数年にわたって監督として指揮をとり、あるいはクラブの会長もつとめたこともあるジョルジュ・フズーム氏(1950年生まれ。現在は、一線を離れスポーツ用品店を営んでいる)だ。

歴代のクラブ執行部は、選手や大勢のサポーターたち、それに各支部組織とともに、ジハードSCの歴史をつくってきた。それは、シリア・ジャジーラ地方(シリア北東部。*トルコ南東部とイラク北部に接する地域。クルド人地域の一部)のあらゆる宗派、民族を包摂する「市民社会委員会」を模し、祖国の構成要素や平和的共存を保持したものである。

一方、クラブ内部、あるいは選手と運営側の間には対立も存在していた。クラブ内部には差別と偏見があったのである。

設立から半世紀以上経って、クルド人が初めてクラブ会長の座に就いたのは、過去においてクルド人の権利を阻害し差別する状況があったことを表している。これはまったく正当化できることではない。

八百長の強要

ジハードSCは、1962年設立され、ジャジーラ地方の大勢の有力者たちが執行部に入った。

しかし、役員の慣例的な割り当てシステム(クラブ執行部のメンバーをクルド人、アラブ人、アッシリア人に配分される)が行われ、クルド人は役員には任命されていたものの、2011年以前は、クラブトップの座につくことは認められていなかった。

ジョルジュ・フズーム氏によると、ハサカ県(*カーミシュリー市を管轄するシリア北東部の行政区)のバアス党(*アラブ社会主義復興党。シリアの支配政党)支部内のスポーツ青年委員会こそが、(*県内の)諸クラブの執行部を形成していた、という。

このことはおそらく、2011年になるまで、明確な法律的な規定がなかったにもかかわらず、クラブのトップにクルド人がなることを禁じていた「慣例」というくびきがあったことを意味する。

おそらく最も注目すべきことは、地元の複数の軍や治安警察幹部が、ジハードSCの活動に関し干渉してきたことである。彼らは、ジハードがジャブラやティシュリーンといった地中海沿岸地方のチームと対戦する際には、「八百長」をするようクラブ執行部に圧力をかけていたのだ。

ジョルジュ・フズーム氏は、2000/2001シーズン、ジャブラとの試合で八百長をせよとの要求を受けたが拒否したという。そのため、ジャブラとの試合前夜は、ジハードの選手たちはチームスタッフら(当局の監視下に置かれていた)とともに、カーミシュリー市郊外タルタブ村にあるアッシリア東方教会に身を隠すことを余儀なくされた。治安機関がチームに接触するのを防ぐためだった。

クルド人初の会長

クルド人として初めてジハードSCの会長に就任したリーブル・マスウール博士は次にように話す。

「私が大学を卒業すると、すぐにクラブの役員になるようにとの要請がありました。しかしこのときは、私はこれを断りました。というのは、私はクラブ役員による選挙で会長の座に就きたかったからです」

2017年、マスウール博士はジハードSCの会長に就任する。執行部の役員は9人、クルド人、アラブ人、アッシリア人各3人ずつで構成された。

カーミシュリーの「3月12日スタジアム」で練習するジハード。2019年1月 https://syriauntold.com/2019/03/10/نادي-الجهاد-نادٍ-برتبة-مدينة/

マスウール博士によれば、これはジャジーラ地方の社会を構成する各民族がお互いに示した開放的姿勢の結果だという。2011年以前は、政治的な障壁により実現することがなかったことだ。

2004年の事件(*後述)以来、治安上の政策により(*ジハードのホームグラウンドである)市営スタジアム(現在「3月12日スタジアム」に改称されている)が閉鎖されたことを始め、ジハードSCをめぐる困難な状況にもかかわらず、クラブはシリア1部リーグ(*日本のJ2に相当。トップリーグはシリアプレミアリーグと呼ばれる)の最終ラウンド進出という好成績を残し、2019/2020シーズンには、プレミアリーグ昇格を果たせるのではないかという希望が膨らんだ。

ところが、ディーダール・ザーザー氏によると、過去と現在の執行部には大きな違いがあると認めざるを得ないという。

「以前のクラブ執行部には経験が豊富な有能なメンバーによって構成されていました。しかし、現在の執行部メンバーは全員、スポーツ経験者ではないんです」と述べ、こう続ける。

「会長のマスウール博士がクルド人だという理由で、支持しない人たちが存在しています。ただし、これは公然とは言われていませんが」

マスウール会長は、能力を基準にして執行部役員人事を行わなければならないと強く主張し、こう述べる。

「私は、(*役員の)割り当てシステムには反対です。民族ごとによるのではなく自由な選挙で選ぶ必要があるからです」

社会の中で果たすジハードの役割

カーミシュリーは歴代シリア政府から疎外されてきた。歴代政権は、宗派と民族によって市民を差別してきた。ジハードSCはそのカーミシュリー内部の民族、宗派の統合の最も輝かしい象徴であり続けている。

ジハードSCの元会長ジョルジュ・フズーム氏(クラブの創設者の一人で、選手としてコーチとして長年チームを率いてきた)は、反差別文化の構築における女性の役割の重要性を強調する。

「観客席に女性の姿があるという点で、私たちのクラブは特異な存在でした。「やさしい性」を持つ人たちはクラブにとって重要な要素です。女性たちがいることで、スタンドで過激な行動を取る観客は抑制してしまいます」

カーミシュリー市は、面積4000キロ平方メートルを超える。民族分布はアラブ人、クルド人、アッシリア人、アルメニア人などで、市内には民族ごとに居住区があるが、いくつかの地区では複数の民族が入り組んで生活している。2004年にジハードとデリゾールのフトゥーワとの試合をきっかけに起こった「カーミシュリー事件」をのぞけば、民族の違いによって社会的に分裂することはなかった。このときの事件は、またたく間にクルド人蜂起という事態に発展、カーミシュリーのアラブ人とクルド人との抗争という最悪の事態に広がるに至った。

カーミシュリーのジハードのホームスタジアム。2019年1月 https://syriauntold.com/2019/03/10/نادي-الجهاد-نادٍ-برتبة-مدينة/より

2004年「カーミシュリー蜂起」とジハードSC

このときでさえ、抗争の収束、あるいは拡大しないようにするなど、クラブは求められている社会的役割を果たすことに労を惜しむことはなかった。

ファアード・クッス氏(*クラブの元会長の一人。別稿でもちょっとだけ名前が出ている)もこう断言する。

「私の主要で基本的な役割は、クラブの執行部やコーチ陣を、クラブやカーミシュリーのために、スポーツを通じて、社会的にも人道的にも平和的に共存できる状態に置くことでした。クラブ内部の対立に関してですが、それはサッカーの戦術上の食い違いですよ。クラブのため、各年代別のカテゴリーで結果を出すための意見の食い違いです。優勝するためのものです」

フズーム氏はチーム内部の(*民族、宗派の違いを理由とする)過敏な行動に対する対処方法について、こう語る。

「私たちがチームの二人の主力選手どうし、ハイサム・クッジュ(クルド人)とマーヒル・マルキー(アッシリア人)が反目していることに気がついたときは、お前たちをクラブから追放するぞとしかりつけました。二人はその後関係を修復しましたね」

ハイサム・クッジュはジハードが誇るストライカーで、国内トップリーグで2回、得点王になっている。シリア代表としてもプレーしたが、2002年、自動車事故で亡くなった。

マーヒル・マルキーはクラブの各年代別カテゴリーでステップアップしていったストライカー。シリア代表でもプレー。ジャイシュに移籍した後、スウェーデンに渡りプロ選手となった。二人は、シリアリーグの得点王を競い合った。

一方、ジハードSCの元役員、ディーラール・ザーザー氏は次にように言う。

「チームの選手たちの間に連合関係というものはありませんでした。…私たちは強固な絆で結ばれた一つの家族のような存在だったんです」

(続く)

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