2017年1月に、5年ぶりに復活したアレッポダービーの政治的背景を指摘する記事の3回目、今回で終了です(参照:1回目、2回目)。
シリアでは紛争中でも国内リーグは基本的にずっと継続して開催されています。ただし、2010/2011シーズンだけは、国民の反政府抗議運動が起こり、次第に熱を帯び始めていった段階(2011年3月末というかなり早い時期)で、中止となっています。
政権の存続が危うくなったと思われた時期でも、続けられたリーグ戦なのに、なぜ、まだ事態がそれほど深刻化していなかった時期に、早々に打ち切られてしまったのか。2021年の今から振り返ると、この時の中断はちょっと意外な気がします。今回の記事では、このときの政権側の判断について、シリア人ジャーナリストが指摘した箇所が印象的です。
アサド政権は、人々の暴動自体は恐れていなかった。それが組織化されるのを恐れていたというのです。つまり、大勢の人々が集まる試合会場で、サポーターとしてある種の一体感を有する活動的な集団を軸に、反政府運動が組織化されるのを恐れていた。
そう推察する根拠は示されていませんが、十分ありうる話だと思いました。旧ユーゴやトルコの反政府デモで、地元クラブのウルトラスが中心的役割を果たしたっていう話はよく知られています。同時に、過激なサポーターに金を渡して騒ぎを起こさせるという可能性だってあったかもしれません。
リーグ中止の判断が功を奏したのかどうかわかりませんが、結局、シリアにおける民衆の抗議運動は組織化されず、2011年夏頃には、政府によって暴力的に押さえ込まれました。以後、「反体制派」の主導権はもっぱら外国勢力によって取って代わられていき、また、体制側もロシア、イランなどの介入を呼び込んだ。そうしてシリア人不在のまま奇妙な「内戦」が始まり、現在に至っているわけです。
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5年ぶりのアレッポ・ダービー アサド政権のイメージ戦略(3)
掲載紙:SYRIA UNTOLD
掲載日:2017年5月30日
URL:https://syriauntold.com/2017/05/30/كرة-القدم-في-حلب-ضوء-على-مناورات-النظا/
執筆者:カリーム・ザイダーン
(小見出しの一部は訳者によるもの *は訳注)
サッカー政治化の歴史
シリアではサッカーは、2000年7月にバッシャール・アサドが大統領の地位につくまでは、収入面では人気のある職業ではなかった。
ハーフィズ・アサド(バッシャールの父親で前大統領)時代は、アラブやアジア、あるいは地中海(*地中海沿岸諸国が参加して4年ごとに行われる国際総合競技大会がある)やオリンピックなど様々な大会で優秀な成績をおさめたスポーツ選手たちの社会的地位向上と経済的が安定するよう努められた。だがそれは、選手たちが競技に専念できるといったモチベーションを高めるほどのものではなかった。
バッシャールは大統領になると、サッカーの国内リーグに大規模な投資を行った。サッカーは国際社会においてシリアのイメージアップを図る道具となると考えたからだった。
「バッシャール・アサド体制が始まる前は、シリアにはプロ選手と呼べるような選手はいませんでした」
ムハンマド・ファーリス(*前出。シリア人ジャーナリスト)は、「SYRIA UNTOLD」の取材に対し、こう話す。
「選手たちには十分な報酬を与えられませんでしたし、メディアに広く露出する機会もありませんでした。それが2003年、2004年頃になると、スタークラスの選手には、高い報酬が支払われるようになった。スタジアムの状態も改善されましたし、各クラブは外国から選手、監督を招いてくるようになりました。この競技に対して最大規模の投資が行われたのです」
民族対立の深刻化
投資が追加されていくのにしたがい、アサドはサッカーに対する支配も強めて行った。それはコネと腐敗の横行を招いた。同時に、多様な民族的背景を持つ国内の民族間に緊張を生んだ。その顕著な事例が、2004年にカーミシュリーで行われた試合(*地元のジハードとハサカをホームとするフトゥーワとの試合)でのクルド人(*ジハード)とアラブ人(*フトゥーワ)のサポーターどうしの衝突である。
このとき、スタジアムに配置されていた治安部隊は、クルド人側のサポーターに対して発砲で応え、7人が死亡する事態となった。アラブチームのサポーターと体制側とのこの連携は、シリアにおけるクルド人に対する長期にわたる一連の文化的、政治的抑圧政策の結果もたらされている数多くの差別の一つとみなされている。
衝突のあった明くる日、事態はエスカレートした。クルド人のデモ隊が地元のバアス党事務所に放火し、ハーフィズ・アサドの像を打ち倒した。結局、無政府状態は、軍が部隊を展開しクルド人の蜂起を鎮圧するまで続いた。アサドは同市の治安を回復したが、これにより、少なくとも37人が死亡、その大半がクルド人だった。また160人以上が負傷した。
以降、アサド政権下において、サッカーがその政治的影響力を強化するために道具として利用されるようになったことは疑いがない。
ファーリスは、「SYRIA UNTOLD」の取材に対し、
「サッカーは、とりわけシリアにおいては政治化されたスポーツなんです」と話し、こう続ける。「現にスタジアムにはいつも大統領の肖像が掲げられているじゃないですか。勝利チームやその選手たちは、公の場で大統領におのおの敬意を表さなければいけないわけです」
サッカーを恐れたアサド政権
しかし、2011年にシリア全土で蜂起が始まると、自身のプロパガンダのために行ってきたサッカーの政治利用は、劇的に変わった。(*試合会場などで)大人数が集まって団結を固めることを恐れ、2010/2011シーズンのリーグ戦を中断してしまったのだ。同時に、政権は、当時結成されていた反体制グループの一員と見られるあらゆる選手を逮捕していった。多くの選手たちは、刑務所での拷問と殺害の危険にさらされた。
「体制側はサッカーが怖かったんだと思います」とファーリスは言う。「だから2011年に蜂起が起こると、初期段階でリーグを中断したのです。政府は民衆の暴動を恐れていたのではなく、(*試合会場などで人々が)組織化することを恐れたのです」
寛大なリーダー
紛争が始まってから6年となるが、アサドはいまだ政治的利益の実現のため利用し続けている。
2012年、アサドは、シリア代表チームをメッゼ山(*ダマスカス)にある自らの宮殿に招き、チームが西アジア選手権(*西アジアサッカー連盟が主催する、西アジア諸国のナショナルチームによる国際大会。2012年12月にクウェートで第7回大会が開催された)で優勝したことを祝福した。選手には、マンションと政府の仕事、総額15万シリアポンド(当時のレートで1400ドル相当)が贈られた。
この祝賀会には、ゴールキーパーでホムス在住(*当時ホムスは反政府武装勢力の最大拠点の一つで、激しい市街戦が行われていた)のムスアブ・バルフースも参加していた。バルフースは「革命派の複数の戦闘員を匿った」容疑で逮捕されたことがある。アサドは、過去の違法行為を許す用意があるという寛大なリーダーを演じて見せた。スポーツを利用して自らのイメージを高めるためだった。
(以下の写真 アジアカップ2011、グループリーグの日本戦でプレーするバルフース)
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アレッポダービーの絶大な効果
影響力を強めるために、アサドがこれまでくり返しサッカーを政治利用してきたことを考えると、今回アレッポが政治的戦略(*2017年1月に行われたアレッポダービーのこと)の舞台となったことは驚くことではない。国際的な報道機関は、破壊を経てアレッポにサッカーが戻ってきたこと、そしてそのことが現地でいかに根本的な変化をもたらしたかと、喜びをもって伝えた。
現実を美化するこれらの報道は、まったくのところ正しいものではない。それどころか、アレッポを敵から解放し、この歴史都市に幸福をもたらすことができたリーダーというイメージを描き出すことで、アサドを支援してしまったのだ。
この1月以降、アレッポではリーグの試合は行われていない。だが、たった1回戦略的に行われた試合の影響力が、独裁制のもとではいかに強力なものか、リーグは示し続けている。(この記事終わり)
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