サッカー 国民感情と政治利用

シリア内戦/社会
2014W杯イラン対ボスニア・ヘルツェゴビナ戦のイランサポーター(almodon onlineより)

代表どうしの試合は、国の威信をかけた戦争に他ならない。

なんてことをしたり顔でいう人はめずらしくない。嫌な表現です。フットボールという世界で最も楽しくて美しい遊びを、よりによって殺戮の応酬と同一視するその無神経さに腹が立ちます。

しかし、そういう過激な表現を好む人って、本当は戦争のことなんか知らないに違いないんじゃないかな。いや、戦争がどういうもので、戦争で人々がどれだけ傷ついているかなんてことには、興味がないのでしょう。

元記事 http://www.almodon.com/culture/2d057700-24fa-4902-a7ea-570c9672450a

サッカーが引き起こす国民感情の爆発

アル=ムドゥン 2014年7月2日
アフマド・アルハリール

「たしかにアルジェリアは今大会に出場した唯一のアラブのチームだけどね。だけどぼくはロシアが勝ち、第2ラウンドに進出して欲しかったな」
(訳注:2014年ブラジルで行われたワールドカップのグループリーグHはベルギー、アルジェリア、ロシア、韓国で構成。ベルギー、アルジェリアが決勝トーナメント進出を果たした)

わたしの隣人はがっかりし、怒ったような口調でこう言った。かれはグリーンのシャツを着ている。シャツには、バッシャール・アサド大統領の陣営が選挙運動で使ったキャッチフレーズ「公平」の文字とともに大統領自身の写真がプリントされている。

わたしは「あなたはなぜロシアを応援していたのか」と聞くと、彼はこう答えた。

「ロシアはわれわれとともに立ち上がってくれたからさ。そしてすべてのアラブ諸国以上の援助をわれわれにしてくれた。もしアルジェリアがいなかったらロシアが決勝トーナメントに進んでいたのに。これはアルジェリア代表チームや、われわれの指導部を支援してくれているアルジェリアのブーテフリカ大統領が好きじゃないという意味ではないよ!」
この意見は現シリア政府を支持する人みんなの気持ちを代弁している。

ワールドカップに出場するチームやそのサポーターの立場は多くの場合、必然的に政治的な立場と結びついている。シリアの反政府勢力の支持者のほとんどは、イラン代表チームに敵対的だった。イラン代表のいかなるダメージも、かれらにとっては喜びであり、祝うべきことなのである。イランがアルゼンチン戦で0−1で負けたとき、反政府系のある新聞はこう書いた。「魔術師メッシがハメネイのゴールにシュートをぶち込む」

前述のふたつの立場は、ワールドカップのたたかいとシリアにおける戦争との絡み合いにおいて端的に見られる。シリア政府を支援する国であれば、政府支持者はそれらの国のチームを応援する。逆に、反政府支持者は、「シリアの友グループ」の国に属するチームならどこでも応援する! このことは今に始まったことではない。サッカーは人気の面で最大の競技であり、国家間の戦争に発展するまで感情をかき立て、しびれさせるスポーツである。

われわれみんな、この数十年間、シリアとイラクの試合で何が起こってきたか覚えている。両バアス党どうしの抗争、そしてともに故人となったサッダーム・フセインとハーフィズ・アサドの両政府の激しい政治的対立が原因となり、ファンどうしの衝突事件が起きずに試合が終了するのはごくまれなことだったし、その試合は衝突を防ぐため第三国で行われてきた。敵対的な同胞関係において、衝突はほんの些細なことで起こってしまうのである。

2014年のワールドカップから遠くない過去のことだが、2004年3月12日、カーミシュリーのチーム「ジハード」とデリゾールのチーム「フトゥーワ」との一戦の際、政治的な影響がカーミシュリー事件を引き起こした。このとき両チームのサポーターどうし、すなわちクルド人とアラブ人とのあいだで衝突が起こり、瞬く間に政治的な抗議運動やデモに発展、デモはルクヌッディーン地区、ワーディマシャーリーウ地区などダマスカスのいくつかの地区にまで達した。

治安機関の介入がなされたこの衝突の結果、約40人が死亡、数百人が負傷し、数百人が逮捕された(逮捕者の大半は2011年の反政府運動が始まった際、釈放されている)。

2004年のこの事件は、奇しくも同じ月に起こった2011年のデモ、反政府運動に対する予行演習だったと見なされている。すなわち、国内リーグのある試合が、人びと、とりわけクルド人が苦しんできた社会に対するうっぷん、疎外、抑圧などを爆発によって明るみにしたのである。その試合は人びとが抱えていた怒りの山脈を爆発させた稲妻に他ならない。

2010年のワールドカップ本大会への一連の予選の中で、エジプトとアルジェリアとの試合は、両兄弟国の重大な危機に変貌した。それはもし両国が陸で国境を接していたら激しい戦争になりかねなかったものである。

スーダンの首都ハルツームで行われた本大会出場をかけたプレーオフのあと、両国のサポーターどうしが激しく衝突、それは政治的な戦争に発展した。このとき、アルジェリアのエジプト大使は本国に召還され、両国において、企業、公的機関、市民間で過敏な非難の応酬が行われ、エジプト内務省はカイロ駐在のアルジェリアの大使を呼び出した。当時の専門家の分析によると、抑圧と独裁、貧困、経済成長の減退の積み重ね、それらすべてが爆発した、もしくは両政府は、こういった問題をすべての点において類似点のある双方の民衆の中にある敵意と憎悪を爆発させるためスポーツに向けたものだった。両政府もまたすべての点において類似していることを示したのである。

(下の写真:2010W杯アフリア予選、エジプト対アルジェリアでエジプトのゴールを喜ぶエジプトサポーター。2009年11月14日撮影)
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Euro2008において、トルコ代表はオーストリアの首都ウィーンで行われたクロアチア戦に勝利した。だがこの勝利は、試合の勝利とバルカン半島でのオンスマントルコの戦勝にたとえたトルコサポーターのシュプレヒコールが叫ばれたことで、政治的、宗教的問題となった。すぐさまクロアチア人側はトルコ人側に反対するシュプレヒコールで応じ、通りは、サポーターたちが手近なものをすべて破壊するという実際の戦場の様相となった。騒動はオーストリア警察が出動するまで続いた。また、騒動はかつてオスマントルコ時代のカリフが併合したボスニア、そしてクロアチアにも波及した。この地域が19世紀末に体験した破壊的な戦争の記憶を思い起こさせたのである。

サッカー戦争に関する最悪の事例は、ラテンアメリカのエルサルバドルとホンジュラスの隣国どうしの戦争である。1970年のメキシコで開催されるワールドカップへの出場権をかけた最終予選が行われた。初戦でホームのホンジュラスがエルサルバドルに勝利した。その際ホンジュラスの観客がエルサルバドルの観客に対し暴行をはたらくと、事態はエルサルバドル人が居住するホンジュラス国内の地区にも拡大した。エルサルバドル人たちは自らの財産や家を放棄して自国に逃げ帰ることを余儀なくされた。エルサルバドル側はこの事件を国連と人権団体に告発した。

1週間後の第2戦は、ホームのエルサルバドルが勝利した。これにより、ホンジュラス・サポーターが敵対行為の報いを受けることになる。
エルサルバドル軍は隣国に対して大規模な攻撃を開始、国境から40キロの地点まで進行した。ホンジュラス側は空軍で応戦、サンサルバドル市とアカフトラを空爆した。2週間後国際社会の介入で停戦したが、この戦争は大規模な破壊と甚大な人的被害をもたらした。

このようなサッカーに関わる興奮は、国内の政治的な課題に関する人びとの関心を国外に向けようとする両国政府によって利用されてきた。また、両国の国民が互いにもつ隣国への反発を増幅させる点において、両国のマスコミが重要な役割を果たしている。アルジェリアとエジプト間で引き起こされた出来事は、その完璧な形であった。

1974年のワールドカップにソ連(当時)は参加しなかった。本大会への出場権をかけた大陸間プレーオフで、チリとの対戦を拒否したからである。それは、チリの社会主義政権に対する軍事クーデターによりサルバドール・アジェンデ大統領が殺害された直後のことだった。ソ連側は、チリとの試合が、ピノチェトのクーデター政権が(アジェンデ政権を支えた)左翼勢力支持者を拘束し、数百人を虐殺したスタジアムで行われることを知り、対戦を拒否したのである。チリは予選最終戦を戦うことなく、本大会に出場した。

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